初夏の草木の育ちをみて【令和2年6月】
里親支援とっとり 所長 遠藤 信彦
我が家のつくばいに、睡蓮が茂っています。この睡蓮は、平成30年に逝去された池田里父が育てていたもので、昨年、里母からいただいたものです。
ぼくの住んでいる棟は、築年数の古い離れ家です。もともとは、祖父が茶室をイメージして建てたものだそうで、茶室に入る前に手を洗うつくばい(蹲)のようなものがあるのですが、そこに睡蓮が茂っている。いただいた頃からすると、随分と株が大きくなりました。
昨年は、このつくばいに、めだか・どじょうなどを放しており、一時期は大盛況で、繁殖までしていたのですが、冬を経て、現在生き物はリセットされています。と、言うのも、ぼくの育てている水辺の植物は、夏・秋を通して、おおいに繁茂するですが、冬には葉を枯らせて落とし、根っこのみで越冬するものが多いのです。めだか・どじょうは、冬の屋外でも水底深くで、じっとして、越冬できるのですが、思うまま夏・秋を謳歌して茂った葉を、冬に入る前に撤去しなかったため、落ちて腐り、水質が劣化して、生き物たちは死んでしまったのでした。
こういったことを経て、葉の残骸と、死んでいった生き物が沈殿し堆積した泥が残ったのですが、そこから伸びる、この初夏の睡蓮は、昨年をはるかに上回る勢いで、水上葉を茂らせはじめています。
このさまをみていると、なんとも、諸行無常(この世の存在はすべて、すがたも本質も常に流動し変化していく)と言いますか、輪廻転生(命あるものが何度も生まれ変わり、また違った形になって存在を繰り返す)と言いますか、そんなことをそこはかとなく感じます。いっとき、失敗したようにみえても、それも含めたさまざまな積み重ねと繰り返しが、実をむすぶたとえとも感じられます。そういえば昔、上司に、『里親家庭や施設は、安心して失敗できる場所であるように』と習ったことを思い出しました。
とはいえ、今年飼うめだか・どじょうばかりは、きちんと冬越しさせるつもりです。
2020.06.15