リレーブログ 第8回「ミットレーベン~ともに暮らす~」藤野謙一(希望館副館長)
僕は今、新築されたばかりの希望館生活棟の一室でこの文章を書いている。今日は休日で、天気は快晴。子ども達や職員達の笑い声、掃除機の音、洗濯機に異音が発生し「あーでもない、こーでもない」と議論する声が聞こえる。縁側から突然「ワッ!!!驚いた?!」と小学生が満面の笑みを浮かべて顔を出す。思わず窓を開け、笑顔で頭をなでる。何気ない休日の一面である。しかし、希望館の生活は、こんな和やかな日だけではない。純真無垢な存在であるはずの子ども達は、社会の歪みの中で様々な体験を経てここに辿り着くため、「自分を見てほしい!」「受けとめてほしい!」と身体全体で言葉や行動で表現し、職員も全身全霊を捧げてぶつかり受けとめる。日々繰り返される「生活」は、言葉にできないリアルな世界である。だから、僕は自分のエゴかもしれないが、ここを拠点として子ども達や職員と生活を共にしながら副館長等の活動をしている。
先日、「ミットレーベン~故郷・鳥取での最後の講義~/糸賀一雄/第14回全国障がい者芸術・文化祭とっとり大会実行委員会/2014年」という本を購入した。この本は、「知的障がい児の父」「障がい福祉の父」と呼ばれた糸賀氏が知的障がい児施設鳥取県立皆成学園で行った故郷鳥取県の地における最期の講義で、ほぼ録音されている通りに再現されたものである。ドイツ語「ミットレーベン」とは、「ともに暮らす」という意味である。
この本の中で、僕が特に気に入った箇所を抜粋する。
「尻を拭くというような、鼻をズルズルの鼻をかんでやるというような、手にその感触がいつまでも残るような『ミットレーベン』の中で、初めて発言ができるというような発言もですね、私たちは尊重しなければなりません。それは、一隅を照らしているからであります。そんなことは、天下国家に関係が無いと人は言うかも知れません。言われてもいいです。言われたって構わない。しかし、必ずこの一隅を照らすところから、この子らが世の光となってくるのです。この世の光となってくるこの光というものが、この子らの存在そのものが、光輝いていくような、そういう育てというもの、教育というもの、指導というものが、社会の財産になる。専門職というのは、そういう働きをして下さる方々なんです。」
講義では、他にも今でも色褪せず本質だと思われることが語られている。希望館は、小舎制生活型の施設にこだわって実践してきた。偶然なのか必然なのかわからないけど、糸賀氏の思想と希望館の思想が重なって、多くの学びを得た。ちなみに、これも偶然なのかもしれないが、糸賀氏は鳥取こども学園の近所で生まれ育ち、鳥取こども学園が繋がっている鳥取教会で受洗している。これも何かの縁なのか、歴史を感じる。
これからも、希望館は「ミットレーベン」を中核に据えながら子どもと大人が共に歩み、現実を切り拓き、新しい未来を切り拓いていきたいと思う。
参考 「ミットレーベン~故郷・鳥取での最後の講義~」のご案内
http://db.pref.tottori.jp/pressrelease.nsf/0/03DC99F779BECDAB49257DA20000863D?OpenDocument
2015.05.07