第14回 「鳥取養育研究所の学園歴史資料整理、そして研究へ」 鳥取こども学園 山本隆史
鳥取こども学園の前身である鳥取孤児院が1906(明治39)年1月13日に創設されて来年で110周年の節目を迎えます。この長い歴史の中でたくさんの文書、書籍、写真が数年前まで、きちんと整理されることなく保管されてきました。
そのような中、山陰の児童福祉史研究のための資料を探されていた徳山大学の小池桂先生(現、京都ノートルダム女子大学教授)との貴重な出会いがありました。小池先生より、鳥取県は中国5県の中で、唯一社会福祉通史の研究がない県であり、鳥取県内主要機関には、ほとんど資料が残されていないのとのこと。
先生のご協力・ご助言をいただきながら平成20年度から鳥取養育研究所の事業として、まずはどのような資料があるのか整理から開始いたしました。保管については劣化の激しい資料もあることから、まずは全文書類のデジカメによる複写が昨年度に完了し、いわばある程度研究の土台作りができたところです。
歴史分析なくして、現在の社会福祉を客観的に捉えることはできませんし、何よりも展望ある未来を描くことはできません。今後はこれらの資料の公開方法、この資料に基づく鳥取県の社会福祉史の研究と勉強会ということがメインになります。
【保管されている写真から見える1コマ】
写真のモーニングコートにシルクハット姿で子どもたちに挨拶をしている人物が、第19代内閣総理大臣、「平民宰相」として有名な原敬です。その左の和装の人物が鳥取こども学園の創立者尾崎信太郎です。私が、データ化された文書類を調べてみましたが、どこにも原敬が鳥取育児院に来訪したという記載を見つけることができていません。
そこで、『原敬日記(はらけいにっき)』を調べてみると原敬は、2度鳥取を来訪しています。一度は明治40年(1907)5月4日~5日。内務大臣として皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の行啓沿道を事前視察する、いわゆる皇太子宿泊所となる池田侯爵別邸扇御殿等がきちんと整備されているかどうかの確認視察のためです。この宿泊所扇御殿が、現在のの『仁風閣』です。もう一度は、明治45年(1912)。内務大臣と兼務していた鉄道院総裁として山陰鉄道開通式のために鳥取を来訪しています。
但し、この「原敬日記」には、いずれの来鳥についても「鳥取育児院」という文言は出てきません。
もう1つの写真は、内務省より感化救済事業奨励助成金が下付された旨を記した送付状のようですが、日付が明治44年11月3日となっています。これより3年前、明治41年から内務省は民間慈善を奨励することを目的に、この助成金を民間事業団体に下付しています。明治45年の来鳥時に、奨励助成金を下付した鳥取育児院が、鳥取県庁舎と同じ鳥取市東町にあるので、内務大臣として視察したのでは・・・と考えられますが、あくまで私見ですので、真実の程は分かりません。
2015.12.09